初夏の清々しさに誘われて、実家のある湘南の片田舎の路地を歩く機会がありました。 かつて、小学校の通学に通いなれた道だったので頭の中におおかたの地理的なポイントは押さえながらの散策です。商店街というにはあまりに素朴な店構えの店 舗が数件ほど軒をつらねる、そんな路地でした。ふと目にとまった駄菓子が懐かしく一軒の店の前で立ち止まり、店主に声をかけました。奥から顔を出したのは 初老の80歳くらいになろうかと思われる年恰好の女性です。私の手元から菓子の袋を受け取ると、小銭を探す私に声をかけてきました。「どこからいらした の?」「今年は、山の梅も去年より早く咲いたのよ。」すかさず私は、「はい。地元の人間なもので…。ご主人のお顔は、毎日通学で通っていたので良く覚えて います。」そう続けると、店主の老女は「亡くなってからもうずいぶんになるわ。」と、かつての店主であろう夫の不在を告げました。
先日、ホームでひとりの女性が天に召されました。90歳を過ぎる年齢でしたので周囲の人々は天寿を全うした。大往生だ。と言葉を添えていました。つい先 日まで言葉を交わしていた方が目を閉じ横たわる病室のベッドの脇にたたずみ、スタッフがエンゼルメイク(死化粧)を行うのを見守りました。 また、つい最近では中国四川大地震がもたらした何万人という人数の死の惨事をTVでは現地映像を交え連日にわたってニュース放映していました。
いのちあるものすべてに死は不可避です。言葉では理解しているかのようであっても、実体となると人知の及ばない領域です。前出の出来事を通して、他者の 死を受け取る実感があまりに希薄な自分を疑いました。が、やはり希薄であることに変わりないのです。
「メメント・モリ」という言葉があります。ラテン語で「死を想え」という意味のようです。生死に対するリアリティの只中に人間存在の自由と尊厳が表出するとも解釈できます。 自我を超越したところにある死が、現実として、自分目がけて向かってくる。対峙するのは私のみ。そのような時の備えがあるどうかには答えるすべが未だにありません。
介護の現場では死を共有する価値観は生きることに向かっているように思えます。それゆえ、自然への憧憬や活発な交わり、いきいきとした笑顔などに貪欲になるのかもしれません。 いつまでも、皆さまの街に生きる喜びと歓声がこだまし続けますように。 |